人権擁護法案 なぜ問題点を放置するか

古賀誠・人権問題調査会長は二十一日の法務部会との合同部会で「一任を取り付けた」と主張して退席した。古賀氏は政調審議会、総務会という党内手続きを進め、今国会に法案を提出、成立させる考えとされる。

だが、平沢勝栄・法務部会長が「部会は了承していない」と述べているように、法案への疑問や疑念は合同部会で一層、強まった。憲法違反の疑いも学者から指摘されている。

執行部は古賀氏の主張を受け入れるよう平沢氏に求めたが、手続きの瑕疵(かし)を見過ごしてはならない。法務部会に法案を差し戻すべきである。

一体、裏でどれほどの取引が行われているのかと思ってしまう。しかも、昨日こんな報道があって事態は著しく進展したにもかかわらず、ニュース番組でほとんど触れることはなかった。もはや、確信犯としか言いようがない。

二十四日の衆院補選を控え、公明党や人権擁護団体の支援を得るための取引材料という指摘が本当ならば、国民への裏切り行為といえる。

合同部会で古賀氏は、焦点の人権擁護委員の国籍条項に関し、任命時には適格性を考慮する、などの付帯決議を行うとの修正案を提示した。

適格性を考慮と言われても、どうやってそれを判断するのだろうか。国籍条項を入れなければ、手段によっては国家権力を乗っ取ることも可能だ。もちろん、そういったことを考慮して、適任かどうかを決めるのだろうが十分な判断材料がありうると本当に考えているのだろうか。

だが、問題は法案の本体にある。一部修正で解決はしない。修正案に対しても次のような疑問が噴出した。

第一は、「人権侵害は不当な差別、虐待、その他の人権を侵害する行為」とするあいまいな定義により、恣意(しい)的な解釈がまかり通る恐れがある。憲法二一条で保障されている国民一人一人の「言論、出版その他一切の表現の自由」が侵害される。

この問題は当初から常々指摘されてきた。差別だと認める行為の定義があいまいなのだ。個人的に書物を出版することも、この法案が可決されたら差別的表現がないかを執拗に考慮する必要がある。その結果、個人が言論界へ進出し辛くなることは目に見えている。

第二は、法務省の外局として新設される人権委員会に事情聴取や立ち入り検査などの権限が付与されることだ。憲法三五条の令状主義は上記の「行政手続き」にも適用されるとの有力な見解がある。令状なしはおかしい。そもそも事実上の警察機能を持つ巨大な組織の創設は行革に反する。

21条も考慮すべきだが、忘れてならないのは35条だと指摘していた人がいた。そもそも、礼状なしの家宅捜索など成立しない。憲法35条によれば、「1何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基づいて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。」そして、「2捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。」とある。

第三は、人権委とその下部組織の人権擁護委員の選出基準だ。人権侵害の情報収集を行う人権擁護委員の活動によっては、かえって人権侵害が生じる恐れが出てくるなどである。

はっきり言ってしまえば、ヤクザまがいのエセ人権組織と朝鮮総連のことである。

このような問題点を放置したまま、国会で法案を拙速に成立させるようなことになれば、密告がまかり通る社会になりかねない。

将来に大きな禍根を残す法案に重ねて反対を表明する。

この法案が可決されたとき、日本は民主主義国家でなくなるのと同時に、日本政府は近隣諸国の傀儡政権に姿を変えるのだろう。ミサイルの一発でも日本に落ちたら、日本人は目が覚めると石原都知事は述べたが、この法案が可決されてもきっと今の日本人は目が覚めないままだと思っている。気づいた頃にはもう遅い。