大日本プロレスほど究極のエンターテイメントはない

smallworldjp2005-03-13

大日本プロレスとは、元全日本プロレスグレート小鹿が1995年に旗揚げした団体である。今年で10周年を迎えるが、もはや、この団体を一日で語るのには無理がある。初期の頃からデスマッチを中心とした、「痛みの伝わるプロレス」を演じてきた。画鋲、サボテン、蛍光灯、ガラス、有刺鉄線、ホッチキス。なんでもありのその試合は、いつでも観客に悲鳴を上げさせる。悲鳴と声援の見事なコラボレーション。他のメジャープロレス団体では絶対に見ることができないハードコアマッチの連続である。一般人、ましてやプロレスをまったく知らない人間には、絶対に理解されないと思われる。インデペンデントの雄、一言で言えばキチガイ集団である。

中でもデビュー当時からのイチオシ選手は、デスマッチがやりたくて入門したという葛西純である。2001年を最後に、大日本デスマッチ戦線から離脱(旧ZERO−ONE)したが、3年ぶりに大日本のリングに帰ってきた。試合中にバナナを食べ、毒のあるマイクで観客を笑わせ、血だらけで蛍光灯をムシャムシャ食べて観客から悲鳴が上がる。葛西の掴み所のないキャラクターは、ファンの心を掴んでいる。自称フィラデルフィア(実際は小鹿社長と同じ北海道)出身。2000年からはアメリカのハードコア団体と対抗戦を行ったが、葛西は本体を裏切ってCZWと共闘というギミック。そのCZWのリーダー・ザンディグと共闘し、CZW・JAPANを結成するが、最後にはザンディグが葛西に造反されてしまう。といったプロレス的ギミック(ストーリー)であるが、その全てはここにはとても書ききれない。やはり、葛西本人はZERO−ONEのような正統派スタイルは向いていなかった模様である。本人は円満退社と言っているが、結果的に古巣に戻ってくる形になった。この写真の試合、ガラスの破片が背中にめり込んで血だらけになっているのが葛西だ。タイトルマッチと銘打っているのに最後にはしごに登ってベルトを取ると思いきや、バナナを取ってしまうという彼らしさも、葛西でなかったら受けないキャラクターである。葛西だからこそ、笑いにもなる。持って生まれた才能としか言い様がない。

そんなギミックを抜きにして、ドラマの流れを知らなくても楽しめるプロレス。それが大日本プロレスだ。とにかく痛みが伝わってくるプロレスだ。自分自身、プロレスと格闘技と比較すること自体がナンセンスだと思っている。まったく別のジャンルを比較しても、何も生まれない。プロレスと格闘技は、サッカーとクリケットほどの違いがある。見た目で分からないほどの複雑なエンターテイメントがプロレスなのだ。「プロレスというジャンルは複雑すぎてバカには理解できない。自分の同僚の医者とか、官僚の人たちにプロレスファンが多い。」富家孝という医学ジャーナリストが、あるプロレスラーとの対談でこう語っていた。プロレスの内幕がどうなっているかなんて、プロレスを長年見ている人間だったらとっくに分かっている。もはやそんなものに興味はないのだ。プロレスを馬鹿にする人間には、同じことをやってみろと言いたい。できるはずない。プロレスラーこそが超一流のエンターテイナーなのだ。ターザン山本氏は著書の中で、さらにこう語った。「プロレスに理論武装は必要ない。必要なのは感情武装だけ。」要は見たものが全てであり、感じたものが全てである。プロレスにはそれ以上の定義は必要ない。アメリカのWWEを見て、格闘技と比較しようとする心の貧しい人がどこにいるのだろうか。