明らかに戦争犯罪だった東京大空襲から60年

smallworldjp2005-03-10

「もし、われわれが負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」

60年前の3月10日未明、東京の下町を焦土と化した大空襲の指揮をとったカーチス・ルメイ米司令官が、後年語った言葉である。
(3月10日付・読売社説)

国際法という言葉ほど頼りなく、説得力がないものはない。いずれの報道でも、国際法違反という言葉は耳にするが、あまりにその拘束力が弱い印象を持つ。法治国家の枠組みを超えてしまうと、パワーポリティスクス、何でもやりたい放題の世界である。最初から戦意を殺ぐために、民間人を大量に殺害するために計画された。まさに東京大空襲は、国際法がまったく無視されたアメリカによる大量殺戮であった。

2日後の3月12日名古屋を空爆。13、14日には攻撃対象を大阪へ移す。この一連の空爆(空襲)によって、犠牲者はのべ50万人。南京事件どころの騒ぎではない。イラク戦争での民間人の犠牲者が、多くても10万人と言われているから、少なくともそれの5倍以上の規模になる。絨毯爆弾で無差別に街を焼け野原にしていく時代があったのである。当時のアメリカ側の呼称は「掃討作戦」であったのだろうか?竹やりで戦おうとしている人間を、武装勢力とでも呼んだのか?

兵器についての知識も必要ではなくなった。焼夷弾などという言葉すら知らない人がこれから増えてくるはずだ。作戦で使われた焼夷弾とは木造建築の日本だからこそ使用された兵器である。屋根を貫通して、家の中で火を噴く。のちにナパーム弾として用いられ、ベトナム戦争からイラク戦争においても活躍する。手も足も失った日本が、警察予備隊を作り、自衛隊を持つまでになって長い時間が経った。戦後60年、2004年には海外で、戦後初めて戦場で自衛隊が活動を開始した。今や実験段階ではあるが、PAC3(パトリオット能力発展型第3段階)による防衛構想までもが、現実味を帯びている。

「ルメイも私も、戦争犯罪を行ったのだ。もし負けていればだ」。ベトナム戦争介入責任者の一人だったロバート・マクナマラ元国防長官が、昨年日本公開されたドキュメンタリー映画フォッグ・オブ・ウォー」で、こう述べている。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」とはよく言ったもので、何もかも戦勝国の思うがままに戦後処理は進んでいくものだ。占領軍と呼ばず、進駐軍と呼ぶことだけでも、いかにアメリカの御都合主義で操作されてきたかがわかる。アメリカによって平定されてしまったことすら、自覚できなくなって、アメリカ風に色付けされた価値観でしかものを見れなくなって半世紀以上経過した。「原爆を落としてくれたおかげで日本は平和になった。」などと詭弁を唱える論者も未だにいるらしい。そんな狂った思想から早く解放されて欲しい。紛れもなく原爆を投下し、空爆によって大量殺戮を繰り返した国が戦犯を裁いたのだ。今こそ、その東京裁判の呪縛から解放されるべき時である。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このままいつたら「日本」はなくなつて、その代わり、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気になれなくなつてゐるのである。(三島由紀夫

この言葉を残して三島は、極東軍事裁判の執り行われた市谷記念館で割腹自殺によってこの世を去った。