まだまだ想定の範囲内?

smallworldjp2005-03-09

堀江氏がフジテレビを除くすべての夜のニュースに生出演した。ニュース23では筑紫哲也と激論を交わした。筑紫が言うには「相互方向性のメディアになったら、デマが飛び交ったりして規制が働くなって人権も守られなくなる。だから、一部の権力者にメディアは任せて置けばいいのだ。」といった口調。さすが人権派の言うことは違う。だが、メディアが変わるというのはそんな大げさなことではない。捏造、でっちあげやりたい放題の一部メディアに比べれば、インターネットメディアのほうがよっぽど健康的に機能していると思うからだ。第一、根も葉もないデマは自然に相殺されていくという、自然治癒力というか自浄能力も兼ね備えている。テレビや新聞の報道の編集現場にもデスクという人間がいて、彼らが原稿を確認し、出稿や訂正の指示を出す。その新聞社の意向に沿わない内容は、もちろんデスクによって削られることになる。紙面には限界があって、ニュースバリューの高いものも削られることがいくらでもある。大きな事件が重なって起きることがある。たとえば、最近で言えば新潟中越地震イラク邦人人質殺害事件である。どちらも一面になるのは確定のニュースである、にもかかわらず日本人の被害者数を考慮して中越地震に大きく紙面を割くことをデスクらの会議=議長会で決定するのだ。

だが、インターネットの報道にはそのような規制は一切ない。一般的なメディアでは、古くなって使えなくなったソースのことを「腐る」と言う。2日も前のことを朝刊に載せるわけにはいかない。インターネットのメディアでは、速報で終わらせることなく、その後も事実の掘り下げが可能だ。速報系から議論系に持っていく。また、自治能力として統制されつつあるのは、ソースのないニュースを信用しないという一貫性である。うそ臭いネタは、「ソースを出せ。」の一言で真偽を判別できる。だから、よっぽどのことがない限り、筑紫の言う情報の錯綜は起こり得ない。彼はきっとそういう事情を知らないので言っているのだろう。インターネットメディアに足りないことは、行動力だけである。現場に行って、写真を撮る、映像を録画する、現場に行くまではもちろん足も必要だ。堀江氏の言うことは理解できる。テレビがなくなるのではなくて、インターネットの情報源の補助的役割をテレビが果たす。それが数年後に行き着く結果だろう。現時点でも、新聞の存在意義はほぼ皆無に等しい。実際、紙の新聞がなくならないのは、その「見やすさ」だけ。ポータブルに読める優れた媒体が登場すれば、紙の新聞は姿を消して、必要なのは取材する遊軍や支局、官公庁のクラブ記者と内勤スタッフだけになるだろう。そうなれば、大手新聞社の存在意義も問われてくる。フリーペーパー感覚で読める個人の新聞が、次々と登場するかもしれない。サイズにとらわれることなく、そして時間の制約もない。知りたい情報を、知りたい時間に知ることができる。ますます堀江氏の主張が正しいと感じる。